11月上旬、奈良に行った際に立ち寄った所。


停められそうな所へ。

灌頂寺跡:
灌頂寺は、北畠親房(後醍醐天皇の政治を支えた南朝方の公卿)
終焉の地ともいわれ、『南朝編年記」正平9年(1354) 9月には、
「十五日入道三宮親房薨於和州字陀郡福西荘灌頂寺阿弥陀院
六十二歳当時賢才上下惜悼之」と記されている。
この周辺には、アミダイン、仙院、蓮池、聖天、東の坊、中の坊、
本願院、塔の坂、大門坂などといった寺院に関係する小字名も残
されており、昭和18年(1943)に寺院の遺構などを確認する目的
で、小規模な発掘調査が行われている。
昭和63年(1988)には、国営農地造成工事に伴う大規模な発掘
調査が奈良県立橿原考古学研究所によって実施され、多くの遺構
・遺物が確認されている。
灌頂寺の寺域は小字、検出遺構などから200m四方にも及び、各所
に院や坊が点在していたと考えられる。「アミダイン」からは、
建物跡、池状遺構、井戸、土坑・ピット(穴)が検出され、大量の
土器類(土師器、瓦器、瓦質土器、陶器、青磁)、などが出土して
いる。「アミダイン」は本坊的な役割を果たしていたと考えられ、
院名から「阿弥陀堂」と推定される。
灌頂寺は、先の出土遺物から、11世紀中葉から後葉に創建され、
17世紀前葉には廃絶したと推定される。
神皇正統記の著者であり、長男(顕家)より長生きした人物。
石碑へ。

南朝の重鎮、かつ思想家であった北畠親房公は、『北畠准后
伝』によると、正平九年(一三五四)、「和州宇陀郡福西荘
灌頂寺の阿弥陀院に閑居して、九月十五日嘉ず。」とある。
由良哲次・山田孝雄両博士らの調査研究によって、『北畠准
后伝』にある灌頂寺や親房公の墳墓の信憑性が高められ、
昭和六十三年の発掘調査によって、灌頂寺跡の全容が明らか
となった。
こうした調査研究を受けて、地域としては、親房公の顕彰会
を組織し、灌頂寺阿弥陀院由縁の蓮昇寺において、九月十五
日の忌日法要を営み、また准后伝を中心とした資料集を刊行
してきたところである。
親房公顕彰の運動が高まるとともに、地域の賛同によって、
この度、「終焉の地」の碑を建てる運びとなった。
よって赫々たる公の徳行を顕彰するとともに郷土の歴史文化
を享受する一端とするものである。

兜と一緒に撮影・・・・

鉄馬(ハヤブサ)が当時あったなら尊氏を京から追放
して南朝の世の中になった気がする。
と思いつつ見学完了。
posted by mannjyu-kowai at 23:02| 栃木 ☀|
Comment(5)
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ハヤブサと1000km超
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